読書記録   1 ルカ伝  2 創世記3讃美歌
ルツ記yonnde 
1 ルカ伝 1963年6月11日発行 著者 矢内原忠雄 発行所 岩波書店 矢内原忠雄全集7巻 20.0426sun 4度目の通読開始。
◎序 
 
〇 私の講義の態度は、・・・・我々の心の底に、生活の中にイエスの愛と生命が浸透して、我々自身の生きて行く力を得たいと願うものである。p3
 
 〇 私が講義する目的は、「キリスト教」という宗教を広めるためではない。キリストを信ずる信仰を伝えるためである。
 
◎ 第1講 はしがき(第1章1-4節)p15
      ルカは医者。パウロと深い関係。その伝道旅行に随行。ルカ著の使徒行伝。we section。ルカ伝は最もパウロ的。ルカはギリシャ人。
 
◎ 第2講 ザカリヤとエリザベツ(第1章5-25節)
 
 ルカ伝は特に「よろこび」の福音書である。p24 20.04.26sun。
 
◎ 第4講 マリヤの讃美歌
 
マグニフィカト(崇める)讃美歌95番 p32
 
「わが母、わが兄弟とは、神の言を聞き、且つ行うこれらの者なり」p35
 
◎ 第5講 ヨハネの誕生
 
イエスが真理そのものであるとすれば、イエス以外の人間の生涯は、ただイエスの証明者としてのみその存在理由をもつのである。p40
 
「ヨハネ」の語義は「神の恩恵」・・「イエス」という名の語義は「エホバは救い主」。極めてありふれた普通の名。
 
子に対する命名は親の理想と信仰の表明。p41
 
イエスは・・イスラエルの救主であることは事実であるけれども、彼はひとりイスラエルだけでなく、ひろく全人類の救主であって、万世の人が彼によって罪の赦による救いを与えられるのである。・・この事を意識的積極的に最も高調した者は、外ならぬルカの師パウロであった。p43
 
◎ 第6講 イエスの誕生(第2章1-21節)
 
イエスの誕生は事実であり、その処女受胎は信仰である。彼が人間として生まれたことは歴史的事実であり、、神の子であることは信仰による啓示である。この故にイエスを信ずる宗教は、事実の宗教であり、また啓示の宗教である。p49
 
◎ 第7講イエスの初詣(第2章21-38節)
 
人は誰でも聖霊に感じなければ神を父と呼ぶことができず、またイエスをキリスト(救主)と呼ぶことができない。p52
 
徹底した救は正邪善悪、純不純、信仰不信仰の峻別から始められる。神の救に甘いところはないのである。p53
 
最大の敬虔は平民の間に宿る。p55-56     190922SUN
 
第8講 イエスの成長(第2章39-52節)
 
イエスは、ごく普通の人間として成長したのであり、・・彼は我らと同じ人間として生き給うた。それ故にこそ彼は万人の友であり、人類の救主であり得給うたのである。 190923mon
 
第9講 ヨハネの出現(第3章1-20節)
 
偉大な1人の預言者が先駆者として過ぎ、それよりもさらに偉大な預言者がキリストとして踵をついで現れる。正に人類歴史上無比の盛観と言うべきであった。p70-71
 
第10講 イエスの受洗(第3章21-23a)
 
ヨハネのバプテスマを受け給うたことは、ヨセフの子と思われたそれまでの私生涯を後にして、神の子としての公生涯の開始を画するに最も相応しき行動であったのである。p74
 
イエスがバプテスマを受けて祈ってい給うた時、天開け、聖霊、形をなして鳩の如くその上に降り、かつ天より声有りて、「汝はわが愛しむ子なり、われ汝をよろこぶ」p75
 
〇〇〇
第11講 イエスの系図
 
マタイ伝の系図は民族的であり、ルカ伝のそれは人類的視野をもつものである。p90
 
〇〇〇 
私は私の肉体を謙一から受け、私の信仰を鑑三から受けたが、
〇〇〇
私の霊的な生命は私が霊のバプテスマを受けた時、直接神から与えられたのであって、その時私もまた「汝はわが愛しむ子なり」という天来の声を聞いたのである。そしてその時以来私の新しい生涯が始まったのである。
〇〇〇
p83  191001tue
 
第12講 荒野の試み
 
 目にこそ見えね、御霊が彼を導き、御使いが彼を守ったのである。神を信ずる者の孤独とは、このような性質のものである。p86 191011fri
  
第22講 罪の救(赦し?)と病の治癒
 
 私自身いくたびか人生の暗き林に座していた時、「人よ、汝の罪ゆるされたり」というイエスの御声に、心の自由と平安を取りもどしたことか。そして「汝に告ぐ。起きよ、床をとりて家に行け」との御言によって、再び歩み出す勇気を与えられたことか。p161  191019sat
 
第23講 レビの聖召(5章27-39節
 
 イエスは答えた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(31-32節) p164
 
 これに反しイエスと共にある喜びは、われらの心に自由を与え、愛を生むのである。p170
 
第24講 安息日問題
 
 愛が革命を来たらしめたのであり、革命が愛をつくり出したのではない。p374    191022tue
 
第25講 12使徒の選任(6章12-16節)
 
 伝道は職業的な伝道師に限らず、平信徒でもなし得ることであり、その器に従うてすべての信者のなさねばならぬ事である。p185
 
 イエスを信ずる信仰と、イエスの使徒たる使命感とを共にする夫婦は、この「二人一組」の美しき適用たるを失わない。祝福、すべての使徒の上にあれ、すべての信仰によって立つ夫婦の上にあれ。p186   191024thr 
 
第26講 禍福論(6章17-26節)
 
 しかし、この世での病の治癒は一時的であって、また病気にかかり、結局人の肉体は病気の前に屈服して、死ぬることをまぬかれない。これに反し永遠的・絶対的である幸福は、天国の福音である。弟子たちはこの福音を教え られて、自ら真の意味で幸福者となり、また人にそれを伝えて、真実・永遠的な意味にでの幸福者とならせる。彼らはその使命をイエスから託されたのである。p191
 
  「山上の垂訓」はルカ伝にあるように、これを12使徒選任の直後になされたものとして解すれば、その含む特別の意味がよくわかるのである。p192 191025fri
 
第27講 愛憎論(6章27-38節)p195
 
 「愛せよ、 仇を、 汝らの」
 
 天父に対し、「恩を知らぬ者」、「悪しき者」とはいったい誰のことか。・・それは我々自身のことではないか。p200
 
 愛敵の教訓は、我ら自身を神によって罪を許された罪人の立場に置いてみて、初めて理解することができ、かつ実践することができる教えであることが知られる。p202
 
 イエスがこの教訓を与えたもうた時と場合と対象とを考えれば、それが観念的な抽象論ではなくて、福音の使徒として世に遣わされる使徒たちへのはなむけの言葉であることがしられるのである。p203   191027sun
 
第28講 言行論(6章39-49)
 
 聖名のため受けし傷あともたずして
  
   みまえに出づる恥知るや君  小出義彦氏 p207  191028mon
 
   「善き樹」は「正しき目」と同様、まじりけなき信仰を意味する。p208 1030wed
 
  問題は信仰である。イエスを神の子と信ずる信仰がすべてであって、その事が出来さえすれば、人生において受け得る最大の賜物を神から受けたのである。イエスの奇跡はこの信仰に対して現わされる。p213  191102sat
 
第30講 ヨハネの質問
 
 権力者から権力を収奪することは革命でもできるが、それは新しい権力者を作るにほかならない。これに反して一人のたましいを救うことはイエスの福音によらなければ絶対にできないからである。p222  191102sun
 
第33講 イエスに仕えた人々(8章1-3節、19-21節)
 
 我らのつとめるべきことは、家庭の無理解にかかわらず己自身の信仰の立場を堅く保ち、天のエルサレムに面を向けて勇ましく歩むことである。そんことが結局、家族の救いに対し我々としてなし得る最善の準備なのである。p242  191109sat
 
第34講 種播の譬(8章4-15節)
 
 聖霊は静かな心に静かな方法ではたらき給う時、最も永続的な実を結ばせるのである。p245
 
 特に「罪人の福音」と称されるルカ伝の特色が、すべての信者に「百倍の実」を約束したことにも表れている・・。p246  191111mon
 
第37講 悪霊につかれた男 (8章26-39節)
 
 我々の心を向けるべき最大の恩恵は、キリストの十字架と復活と再臨とによる罪の許しの完成であり、それ以下の恩恵をもって立ち止まってはならないのである。p262
 
  しかし終わりの日、イエスが再び天より顕れて神の国を地上に建て給う時に及んで、自然界と人間の調和は完成し、その不調和の故に人の苦しみ悩むことはなくなるであろう。その希望を我らに象徴するものは、ここに記されたイエスの2つの奇跡であったのである。p296 191130sat
 
第46講 我に従え(9章57-62節)
 
 十字架を負うて生きることは死ぬことよりも苦痛である。世を愛せず、世への愛着を断って、世を「憎む」までに至らなければ、イエスに従う者となることはできない。このイエスの言の激しさに耐えることのできる者だけが、イエスの弟子となることができる。しかも実際には、真実の心をもってイエスに従おうと決心する者に対しては、御言葉の激しさに耐える力そのものを聖霊が彼に与えて、彼をはげまし、慰め給うのである。p323
191214sat
 
第48講 70人帰る(10章17-24節)
 
 伝道は成功することもあり、失敗することもある。しかし、イエスを知ることの喜悦と幸福は、事業の成敗を問わずして弟子達の心をみたすのである。p337 191216mon
 
第53講 神の霊と悪鬼の霊(11章14-26節)
 
 神の霊の働くところ、現世にも神の国は臨んでおる。同時に、朽つる者が消え去り、朽ちざるものが完く顕れるという意味においては、神の国は来世のものである。 
 
 神の霊によって悪鬼を追い出された我らは、「御国の来たらんことを」祈ることによって、神の霊を我らの中に常住させ、「空家」となることなくして生きることができる。191222sun p373
 
第54講 幸福なる乳房とヨナの徴
 
 神を見る目は信仰である。「内なる光」は信仰を点火する聖霊である。p380 191224tue
 
第56講 弟子の任務と覚悟(12章1-12節)
 
 我らもまた自己の生涯の実験によって、イエスの御言葉の真理をさとる者となるべきである。p397 200111sat
 
第57講 財産問題と生活問題(12章13-34) 
 
 弟子たちはイエスと共に父の御国を相続するところの共同相続人である。・・・神に対して富むものは、常に天国の栄光に心を向け、生活の問題については信仰によって思い煩わない。従って希望と歓喜と平安が常にその心に宿るのである。p404 200115wed
 
第59講 分争(12章49-53節)
 
 イエスは毒にもならず薬にもならないような、気休めの教を述べる教訓家ではない。彼の投ずるのは、火のような生命の霊である。分争が起こるのは、彼の言が生命力として人の心に有効に働く証拠であって、これを信ずる者は神に義とせられ、キリストと共に神の国の世継たる光栄を与えられるのである。p418 20.01.19sun
 
第61講 審判と悔改(13章1-9節)
 
 「神の仁慈(なさけ)とその厳粛(きびしき)とを見よ。厳粛は倒れし者にあり、仁慈はその仁慈に止る汝にあり。もしその仁慈に止らずば、汝も切り取らるべし。(11:22)」である。神はあなどるべき者ではないのである。p432 20.01.27mon
 
第64講 労働と前進(13章31-35)
 
 彼の贖いの死と復活を信じる者は、罪の束縛と死の恐怖から解放され、永遠の生命と復活の希望に生きる霊を与えられる。p451 20.02.01sat
 
第68講 放蕩息子とその父(15章11-32)
 
 幸福なるかな放蕩息子、その人は父なる神のもとに帰ることができるからである。p489 20.02.19wed 
 
第72講 躓物(つまづき)と罪(第17章1-41節)
 
 ただルカ伝は、つまずかぬようとの警告よりも、躓物を来たらす者への警告と、つまずいた者への赦しの方面をより力説することおいて、特色を持つのであり、この意味において特に「罪人のための福音書」と呼ばれるにふさわしいのである。p521-522 20.03.03tue
 
第82章 平和の主(19章28-40節)
 
 しかもこの大合唱の中を進み給う者は、「柔和にして驢馬の子に乗り」給う見栄えなきイエスである。なんという外観上の矛盾であるか。この矛盾の中に、キリストの福音の根本的な奥義が秘められているのである。p600 20.03.20fri
 
第99講 イエスの墓(23章50-24章12節)
 
 一週の始めの日の朝まだき、香料を携えてイエスの墓に急いだ女たちを導いたものは愛であった。それによって彼らは、イエスの墓が空になっていたという事実の大発見をしたのである。この愛と、それによって発見された事実の上に、イエスをキリストと信ずる信仰と、イエスによる神の国完成の希望とが、墓を掘った岩よりも固く据えられたのであった。p724 20.04.12sun. イースター。
 
ルカ伝落穂ひろい(その2)
 
 イエスの福音はいつでも罪人・弱者のみが理解し、心からあがめることの許される真理なのである。罪人はイエスに信じ従い、政治家と実業家と教育者はイエスを利用しようとする。利用者を警戒せよ。p757 (これがこの本の最後の言葉である。) 20.04.21tue。
 
 
 
 
   
 
矢内原忠雄全集7巻のルカ伝を毎朝少しずつ読んでいます。3回目の通読です。
特に心につよく感じたところを入力しています。